実録馬券裁判(2) 弁護士中村和洋
第2 あとは裁判で争ってください
1 固まっていた大阪国税局の方針
(1)「先生,失礼ですけど・・・」
事件を受任した私は,まず,大阪国税局査察部の担当官にアポイントメントをとった。
じつは弁護士が税務事件で税務署員や国税局の担当官と会おうとするときに,いきなりハードルがある。それは,
「先生は,税理士登録をしておられますか? あるいは税理士業務の通知をしておられますか? そうでなければお会いできません」
というものだ。
しかし,弁護士法3条2項で,「弁護士は,当然,弁理士及び税理士の事務を行うことができる」とされている。
だから,弁護士であれば,法律上当然に税務関係についての紛争で税務署や国税局と折衝することができるはずだ。
でも,課税の実務ではそうなっていない。
課税当局は,税理士法2条で,「税務代理については税理士が行うことができる」とされていることを根拠に,弁護士であっても,実際に税理士登録をしているか,あるいは税理士法51条で定めるところの弁護士会を通じて税理士業務をおこなう弁護士としての通知を経ていないと,税務代理はできないとの見解を取っている。
税理士登録をしたり,税理士業務の通知をしたりしている弁護士は,あまりいない。税務事件を担当する弁護士が少ないからだ。
だから,たまたま顧問先の関係などで税務署と折衝することになった弁護士が,税務署の担当者と会おうとすると冒頭の言葉を浴びせられてしまう。
弁護士は当然に税理士資格を有しているから,税理士登録をすることはむずかしくはないし,弁護士会を通じて国税局に通知をすることも簡単な手続きではある。
しかし,弁護士法で「当然,……税理士の事務を行うことができる。」とされている弁護士が別途,税理士登録などしておかなければいけないという取り扱いは,形式的にすぎるのではないだろうか。
また,弁護士は依頼者の代理人として折衝するわけで,そのため委任状を提出することになる。委任状の形式は法律で定まっているわけではなく,誰が誰に委任するのかといった当事者の特定,委任の内容,委任した年月日が記載されていれば足りるはずだ。
しかし,国税当局は,みずから定めている様式の委任状しか受け付けない。
徹頭徹尾,形式主義である。「悪しきお役所の慣行だな」といつも思うが,本論に入る前のたかが入口の問題で議論をしても時間がもったいないので,相手の言うとおりにしているというのが実情だ。
私が電話したときも,慇(いん)懃(ぎん)に,
「先生,失礼ですけど,税理士登録か,通知はされていますか?」
と聞かれた。
そこで,私は,いつものように,
「2007年7月に大阪弁護士会を通じて大阪国税局に税理士業務開始通知をしています。委任状も様式にしたがったものを準備しています」
と言って,ようやくアポイントメントがとれた(※現在は,税理士登録をしています)。
(2)「これはもう決まったことですから・・・」
私はすぐに,大阪の天満橋にある大阪国税局におもむいて,担当官と話をした。
担当官は50代の男性。この事件の現場責任者である統括官の肩書きをもっていた。
統括官が言うには,
「この件は,すでに国税庁の決裁も経ており,大阪国税局の方針は固まっております。近々,大阪地方検察庁にたいして,単純無申告犯ということで告発する予定です。また,その後まもなく,税務署から課税処分もおこなわれる予定です。これはもう決まったことですから,動きません。あとは裁判で争ってください」
とのことであった。
さらに聞くと,藤原さんの言っていたとおり,大阪国税局は6億数千万円の納税義務があることを前提に告発する方針とのことであった。
行政事件を専門とする弁護士としては,行政の担当者と折衝するさい,当方の主張はきちんと伝えるが,態度は紳士的にすべきというのが鉄則だ。相手も人間,不要な反発を買う必要はないからだ。
しかし,このときばかりは,私もやや冷静さを欠き,
「どう考えてもおかしいですよね。絶対に払えない税金をどうやって取るんですか? あなたたち,本気ですか?」
と抗議した。
統括官は苦笑しながら,「いや……」と口ごもる。
その後は私もなんとか落ち着きを取り戻して,統括官としばし議論をしたが,まったくの平行線であった。もとより,組織としてすでに決まっている結論を議論でくつがえすことはできず,法律にのっとった手続きをとるほかはない。
ただ,課税処分がなされるというだけでなく,無申告の事実が刑事事件として告発されるということは,個人にとって相当の重みがある。
仕事や家族はどうなってしまうのか。
(3)競馬の払戻金について確定申告することができたのか?
藤原さんは,せめて確定申告だけでもしておくべきだったのだろうか。
後日,私は,藤原さんには,
「もっと早く相談に来てもらえれば……」
と言ったこともあったが,あとの祭りである。
しかし,そもそも早く相談に来てくれていたとして,私はどう対応できただろうか。
藤原さんが,馬券の払戻金で最初に大きな利益が出た時点である二〇〇五年は,私はまだ検察官であり,弁護士ではなかったが,少なくともその後,査察の調査が入る前に相談があったとして。はたして確定申告をするように勧めることができただろうか。
藤原さんは,たしかに馬券の払戻金で利益を得ていた。所得がある以上,確定申告をする必要があることは,知識としてはあった。
実際,馬券の払戻金で利益が出たことで藤原さんは,いったんは確定申告をしようと考えた。そのときに問題になるのがどこまでを経費として算入できるかだ。国税庁のホームページを見るなどしても,その点の解説はなかった。
インターネットでいろいろ検索してみたところ,当局の公式の説明ではなく税理士の解説レベルであったが,どうやら課税の実務ではあたり馬券の購入費だけが経費となり,はずれ馬券の購入費は経費として認めてもらえないらしいということが,藤原さんにはわかった。
これまでたしかにトータルでは儲かっていたが,それは,多種類,大量の馬券を継続的に購入したことによるもので,購入した馬券の圧倒的多数ははずれ馬券だ。もしはずれ馬券の購入費が必要経費として認められないのであれば,最初に利益が出た年度において,すでに納税しなければならない金額は,実際の利益を数千万円も大きく上回ることになる。ふつうの会社員にすぎない藤原さんには,そんなお金はないので納税は不可能だった。
また,藤原さんはこうも考えた。
そもそも,馬券でたくさん儲けた人に税務署が調査に入って,税金を徴収したということは聞いたことがない。
年間あれだけ競馬の払戻金があるのだからその年に一時的に儲かっている人は大勢いるはずだし,はずれ馬券を経費として認めないのであれば,トータルではマイナスであっても,計算上は所得があることになってしまう人はもっとたくさんいるはずだ。だいたい馬券の払戻金に課税がなされているならば,世間で大騒ぎになっているはずだが,そんなことはない。
それにJRAも,国税庁も,競馬の払戻金には税金がかかるということを広報しているようすはまったくない。
要するに,馬券の払戻金には実際には課税されていないのではないか。
このようなことから藤原さんは,確定申告をしなくても,現実には馬券の払戻金に課税されるようなことはないし,また,もし確定申告をしてしまえば,とうてい払えないような税金がかけられる可能性があると考えて,確定申告をしなかった。
今回の裁判が報道されて,競馬と税金の問題が大きく関心を呼んだが,それより以前の段階で,藤原さんから相談を受けて,「確定申告しなさい」とはっきり言えたかどうか。
相談を受けた専門家(弁護士,税理士)としては,
「一般的には馬券の払戻金は一時所得とされているが,あなたのような場合は,事業所得または雑所得になりうる。その見解にもとづいて,はずれ馬券全額を必要経費として控除した確定申告をしよう」
と答えるべきと言えるだろう。
たしかに模範解答のように思える。
ただ,刑事事件,とくに脱税事件にくわしい弁護士なら,もっと突っこんでこう考えるだろう。
「税金を国税当局の見解よりも少なく申告すれば,虚偽過小申告ということで,脱税になるのではないか」
(4)単純無申告犯と逋脱犯
今回,藤原さんが告発されようとしている事件は,単純無申告犯だ。
これは,たんに納税義務があるのに確定申告をしなかったという罪で,現在は当時よりも少し法定刑が上がったが,それでも1年以下の懲役または50万円以下の罰金という比較的軽い罪だ(所得税法241条)。
しかし,世間で言われる脱税,これは,正確には「逋(ほ)脱(だつ)犯」というが(逋とは「にげる」「のがれる」の意),「偽りその他不正の行為により……所得税を免れた者」は,10年以下の懲役と,単純無申告よりもずっと重い罪になる(所得税法239条1項)。また,罰金についても,免れた所得税の額以下(つまり1億円の脱税なら,1億円以下の罰金)という高額なものが科される(所得税法239条2項)。
このように単純無申告犯と逋脱犯とは,刑の重さが全然ちがう。
さて,藤原さんが,馬券の収入は雑所得だというみずからの見解にもとづいて確定申告をした場合,税務署の見解とは大きく異なる所得金額になる。
最高裁判所の判例では,実際の所得よりも少ない金額をあえて確定申告書に記載すること自体が,「偽りその他不正の行為」となって,逋脱犯にあたるとされている。
そうすると,藤原さんが申告したとしても,その行為は,逋脱犯として,もっと重い罪に問われた可能性がある。
藤原さんは,競馬の取引のデータはすべて残していたので,申告をしていなかったというほかに,なんら「偽りその他不正の行為」はしていない。だから,その場合は罪が軽い。
しかし,確定申告をしてしまえば,ウソの内容の申告をしたとして,ずっと重い逋脱犯になってしまう可能性がある。刑事実務上,逋脱犯では,数億円単位の税を逃れた場合には,実刑になるリスクが高い。
では,どうすればいいか?
つづく